14歳の少女の視点で描くことで思い出したこと


これまでのノンフィクションでは、大人である自分の視点で書いてきたブレイディさんですが、今回は14歳の少女の視点から見たものを書いています。「いまさらセーラー服を着るような感じ」と思いつつも、一度腕を通してみると、当時の自分の経験が蘇ったといいます。「自伝を書くつもりはないけれど、この作品は一番それに近いものかも」とブレイディさん。ミアの経験のいくつかは、自分自身の経験だと語ります。

ブレイディ:私の家は貧しかったので、高校時代は定期券のお金を自分で作るためにアルバイトしていました。それが先生に見つかって事情を話したら「嘘をつくな、そんな家庭が今時日本にあるはずがない」って言われたんです。「一億総中流」という言葉に日本全体が酔っていた時代にも私のような貧困の子供はいたんですが、それを「ないもの」として決めつけられた。その衝撃たるや。

当時の私は卒業したらイギリスに行こうと決めていました。イギリスは私にとって「ここではない別の世界」だったんですが、来てみたら同じようなことを考える同じような人たちがいる同じような世界、元いた場所と地続きなんですよね。つまり「ここではない別の世界」は今いる「ここ」と同じ、「ここから始まる世界」でもあるんです。

 
 

小説の中で「ミアが読む本」の中に登場する金子文子も、ある時点で自分のいる世界に絶望し、自殺しようと山中の川に入水します。そんな時、自分の周囲を取り巻く蝉の声、自然の美しさに気づき、思うのです。「世界にはまだ見ぬ美しいものがある、こことは別の世界だってあり得る」と。

 


ここじゃない世界はある、
世界は変えられると子供たちに伝える意味


小説には二つのキーワードがあります。ひとつは、ブレイディさんがイギリスに求め、金子文子がその可能性を信じた「ここではない別の世界」です。小説やマンガなどでよく登場するその言葉は、夢見がちな女の子が思い描く理想の世界というようなイメージがあり、「そんなものはない」として、地に足をつけて生きるメッセージとともに描かれてきたように思います。でもこの作品は「“ある”と信じる人には、ここではない世界は存在する」と熱く語りかけます。

ブレイディ:連載小説で書いていた時には「オルタナティブな世界」という言葉で書いたんですが、最近、社会運動をしている人たちがよく使う言葉です。イギリスのサッチャー元首相や日本の安倍元首相は、「この道しかない」と言った。サッチャーの言葉を直訳すれば「オルタナティブはない(There is no alternative)」です。でも「ここではない世界=オルタナティブな世界」は存在するし、もっと言えばそれは「ここ」を「ここではない世界」に変えてゆけばそれが「別の世界」になる。バーチャルリアリティとか空想の世界でもう一人の自分を生きるみたいなことじゃない。きちんとご飯を食べてお腹いっぱいになれる世界は、現実として作ることができるーーそれを信じられるかどうかだと思います。ミアのような境遇にある子供たちに、「ここじゃない世界があるよ、世界は変えられるよ、世界は広いよ」って言ってあげられるような社会でなきゃいけないと思います。

もうひとつのキーワードは、ブレイディさんが様々な著書の中で書き続ける「エンパシー」という能力。作品の中でこれを担うのは、ミアの友人でミドルクラスの家庭に生まれたウィル。彼は自分とは全く違うミアと彼女の言葉に惹かれ、「一緒に音楽をやろう。君のリアルをラップにしてほしい」と持ち掛けます。

ブレイディ:ウィルは、小説を構想した最初の段階から出そうと思っていたキャラクターです。イギリスでは、階級が違えば住むエリアが全く異なり、行動範囲が重ならなくなる。普通ならミアとウィルは交流せず分断されていて、一緒に何かをすることはありません。でもウィルは「彼女のことを理解できないかもしれない」と思いながらも、理解するための努力をしたいと欲する。それが今、最も必要な姿勢=エンパシー(自分とは価値観の異なる人の考えを想像する力、スキル)で、多様な社会では「シンパシー(共感)」でなくこの「エンパシー」こそ育てるべきなんです。なぜならエンパシーは他者のためでなく、自分のためにもなるから。視野を広げ多様な考え方を可能にし、それによって自分自身が思い込みから解放されて楽になれるから。組織のためとかシステムのためにやったことで保身したつもりでも、最終的には裏切られることが多い。けど、人間のためにやってることはいろんな形で自分自身に戻ってくると思う。それは当たり前ですが、自分も人間だから。