勤続16年は、空港の生き字引


咲月は、羽田空港のグランドスタッフになって、今年で16年目の36歳。大井町の古い賃貸マンションで1人暮らし。

数十人いた同期はもう咲月と美奈子の二人しか残っていない。二人とも「お局さま」などという存在を超越した、空港オペレーションの生き字引のような立ち位置だ。羽田空港のグランドスタッフという仕事は、24時間稼働する広大な空港でのシフト勤務。体力勝負なので、5年もいれば立派なベテランという世界なのだ。

しかしそんな大ベテランの咲月にとっても、コロナ禍はこれまで体験したことのない、長い苦境だった。航空会社は世界中で打撃を受け、スタッフは大量に解雇された。

咲月の会社も、社員の半数ほどを出向させ、自宅待機や在宅研修などで2年間をしのいだ。咲月は羽田に残り、研修のマニュアルを作ったり、訓練カリキュラムを再構築したり、現場の責任者として感染対策に翻弄されたりする日々。まず堪えたのは、1人暮らしを直撃する給与3割カット。コロナが猛威を振るい、自宅待機の月は手取りが15万円のときもあった。でも何より堪えたのは「接客したいのにお客様がいない」ということ。

しかしようやく、旅客数が回復しつつある。特に国内線は、この夏ほとんど例年並みになるらしい。咲月は活気づいてきた空港の景色を見るたびに、胸を高鳴らせていた。

「咲月さん、今日はカウンター責任者なんですね。お手柔らかにお願いいたします!」

「いつも柔らかいと思うけどなあ。こちらこそよろしくね。夕方から満席だから、気合いれていきましょう!」

同じく遅番の後輩たちが咲月に挨拶をしながら、てきぱきとチェックインカウンターに入っていく。

咲月の会社には大きく3つのグループがあり、それぞれ早番・遅番・休みを2日ずつ繰り返してローテーションをしている。咲月が所属するグループは本日遅番、つまり午後から深夜までの8時間勤務だ。

今日は1日、このチェックインカウンターの責任者。咲月は目の前のロビーにいる旅客を全員、定時に安全に搭乗させるぞ、と気合をいれてぐるりと見回した。

 


奇妙な男の予約履歴


――あれ……? このお客様、今日の伊丹行きの全便に予約をいれてる……!?

旅客が少し途切れた16時すぎ。咲月は、出発が20分後に迫った大阪の伊丹空港行のフライト情報を手元のPCで開き、チェックイン状況を確認していた。責任者としてフライト情報を確認しているうちに、奇妙がことに気が付く。

アキノ リツ、男性、33歳。同行者はアイザワ シホ、36歳。

間もなく出発する予定の大阪便を、たった今キャンセルしている。そしてそれを朝からずっと繰り返しているのだ。

 

「変更可能な高いチケットを持っているんだろうけど……困るのよねえ、こういうの」

咲月は思わず責任者ブースでため息をついた。2メートルほど先にずらりとならぶ、カウンターの後輩たちが、ちらりと後ろを振り返る。責任者というのは、基本的に若い子たちから恐れられているものなのだ。

ごめんごめん、気にしないで、としぐさで謝りながら、咲月はこの「迷惑な二人組」の名前で検索してみた。なんと、この後のフライトから羽田/伊丹フライトの最終まで全便に予約が入っている。

――「何時に会議が終わるかわからないから」って全便に予約入れておく役員秘書はよくいるけど……男女でこの年齢、それは考えづらいし……カップルなのかな? たかが旅行でここまでする……?

咲月は「長年のプロの勘」で、この予約はなんだかきな臭い、と腕を組んで思案した。