不意打ちの登場


――あれ? さっきはお母さんに書いたポストカード、手に持ってなかった?

 

母親に会ったらすぐに渡したいのだろうと思っていた機内で書いたカードがない。咄嗟にベンチの下をのぞくが、ない。リュックに入れたのかとみゆきちゃんに尋ねようとしたとき、ベンチの後列に座っている男がカードを手にしていることに気が付いた。

「あ。すみません、それ……」

拾ってくれたのだと思い、御礼を言いかけて、優子は息をのんだ。

男は、泣いてた。カードを読んで、てのひらで顔をごしごし拭きながら、それでもあふれる涙を止められずに泣いていた。

40近い年齢に見える。Tシャツにハーフパンツで、無精ひげ。床屋さんに行きそびれています、という風情のヘアスタイル。

 

その時、ちらりと、みゆきちゃんが男のほうを振り返った。それで分かった。

この男が、父親だ。

「あの、ちょっと、トイレに行きたい」

みゆきが優子のほうを見て、手をひっぱった。その様子は唐突で、何か理由がありそうな気がする。優子は迷った。トイレは目と鼻の先。この男が父親であるならば、距離は離れるので、時間を稼げるかもしれない。

「OK、じゃあ行こう。手を離さないでね」

優子は咲月に、「ここにいて、お母様が待ち合わせの標識の前に来たらご説明お願いします」と言うと、みゆきの手をひいた。

「お姉ちゃん、あの、こっち広いから使いたい。鍵、がちゃんてやるやつ、固くてあかなかったことあるからボタンがいい」

トイレの前まで来ると、みゆきがバリアフリートイレの個室を指さした。確かに、電動ボタン式だ。隣の男性用にも同様にバリアフリートイレがあり、両方空いているので、迷惑はかけなくて済みそうだった。何よりその時、優子にはある予感があったので「わかった。じゃあここで待ってるね。ボタンは、赤が閉める、青が開けるだよ」と笑顔で手を振った。

ドアが内側から閉まる。優子はみゆきちゃんを守るように扉の外に立った。そして少し離れたベンチの方を見ると、そこには鬼の形相できょろきょろしている咲月と、その後ろの男が目に入った。男がスマホを取り出す。

同時に、背後のトイレの内側から、くぐもった声が聞こえた。

「パパ! みゆきだよ、お手紙読んだ? うん、うん、大丈夫、飛行機楽しかったよ。スカート、可愛かったでしょ? うん、元気、元気!」

やはりそうだ。みゆきちゃんと父親は、連絡を取っているのだ。おそらくは母親や祖母にも内緒で。

コンコースで飛行機の写真を撮って、どこかに何かを打っていたみゆきちゃん。きっとメッセージを送って消すくらいのことはできるし、父親に会いたくて、母親に嘘をつくことも、もうできる。7歳は、大人が思うよりも、ずっとお姉さんだった。

「おしゃべりしたかったけど難しそう。だめだよ、バレたら捕まっちゃうよ、ママたちがみゆきを連れて行くってお姉さんたちに言ってるんだから。え? うん、大丈夫、ママも手術うまくいったんだって」

優子は、それ以上親子の会話を聞くのは悪い気がして、扉から数歩、離れた。

きっと、母親には母親の、そして「ロクデナシ」の父親には父親の、物語があるのだ。

みゆきの様子からは、少なくとも父親が彼女に危害を与えてきたということはなさそうだ。もちろん保護者である母親から厳命されている以上、会わせることはできないけれど。

優子は、ベンチから立ち上がって、変わらずに周囲を警戒している咲月を見た。事情を話す時間はなさそうだし、万が一のとき、父親と知っていたと露見すれば、責任を問われるかもしれない。咲月は巻き込まず、みゆきを無事に母親に渡すのが一番だろう。

そうすれば、あとほんの少しだけ、あの男は娘の近くにいられる。いつの間にか、娘に会いたくて空港までやって来た父親に肩入れしそうになっていた。

「お姉さん、ありがと」

みゆきちゃんがトイレから出てきた。頬が紅潮している。目には生き生きとした力が戻っていた。

「うん。じゃあ、ベンチに戻ろうか」

優子はみゆきの手をぎゅっとにぎると、またもとのベンチのところに戻った。いつの間にか到着ロビーは人が増え、沢山の人が行き交っている。みゆきは笑顔でベンチまで戻ると、男に目くばせしてからそこに座った。

背後で、男が、ぴんと背筋を伸ばすのがわかった。