でもこの映画が本当に素晴らしいのは、見ているうちにケイコが「ろう者」であることも「ボクサーであること」も忘れてしまうことです。たとえ耳が聞こえなくても伝わる「女性なのに」「ろう者なのに」という雑音の中で、ケイコが経験する逡巡や葛藤は、言葉にされないからこその普遍性で、観客の心をとらえます。主演作が続き、はた目には順風満帆に見える岸井さんもまた同様です。

 

岸井:モヤモヤしない、なんてことないですよ。順風満帆に見えているんだろうな、とは思いますが、やっぱり物事にはいろんな角度があるし。自分自身、どこか負け続けているような感覚はあります。勝負ごとが本当に苦手で戦う以前に降りてしまうくせに、そうやって自分から選んだ負けに対して劣等感を感じてしまう、みたいな。ボクシングをやっていて、強くなりたい、勝ちたいっていうふうに思ったのは、だからかもしれない。身体は裏切らないんですよ。やればやるだけ筋肉がつくし、打ち込めば打ち込むほどフックは早くなるし。これなら勝てるかもしれないーーまあ自分に対して、ですけど、結局は。そういう思いはあります。

 

三宅:もしかするとモヤモヤなんて適当にやり過ごしたほうがラクなことって、世の中にたくさんあると思うんです。それでも僕は、小さな違和感にも本気で向き合う人って美しいし、かっこいいなと思う。ケイコのモデルとなった小笠原恵子さん、映画の主人公のケイコ、そして岸井さん本人に共通するのは、そういうところな気がしています。時間がかかっても丁寧に積み上げていく。僕は怠け者なので「明日朝起きたら天才になってないかな?」とか「明日平和になってないかな?」とか、まだ10代のようなこと思うんですが(笑)、なんであれ日々のものすごく小さい変化を積み重ねることでしか、大きなことは達成できないと痛感することが多いです。映画づくりも、1ショット1ショットを丁寧に作ること以外、ありません。