日本男児と「ガラスのゆりかご」


姉が思春期の時点で父に対し「案外しょーもない人」というジャッジを下し、我が家を機能不全家庭だと感じていた背景には、おそらく当時の母が姉に対し「話の通じない夫、育児(特に僕の)に不参加の夫への不安や不満」を、日々口にしていたことにも理由がある。人の気持ちや集団の雰囲気にとても敏感で、母からも同じ女性だからこその依存を受けていた姉には、その状況が機能不全に感じられたのだろう。

けれど一方、子ども時代の僕は、母から父に対する愚痴を聞いた経験がほとんどない。だから僕は、我が家は母と子だけの(父親不在の)家庭として、十全に機能しているように感じていたし、父の単身赴任だって、「赴任先をベースキャンプに様々な観光地に行けた」という、ポジティブな経験として記憶している。むしろ父が不在がちということは、すぐ手が出る父親が家庭から消え、多少寂しくても、「自由であること、平和であること」を享受でき、そのメリットの方が圧倒的に勝っていた。ああ、これは明らかに、家族内でのジェンダーギャップだろう。

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つくづく弟というのは、日本の男児というのは、吞気で平和でお得な存在だと思う。

若き日の僕は、おそらく父を実際以上にハイスペックな人間と認識し、そんな父が「劣った自分」のことを理解できるはずがないと、早々に決めつけて心を閉ざした。父から有効なアドバイスが貰えるとは思っていなかったから、学業においても進路についても、父に話したいことは一切なかったし、実際相談もほとんどしなかった。それはすなわち、「あんたなんかには言ってもわかんないだろうから」と、僕の人生において父を戦力外と見なしていたことにもなる。

 

ただし、姉とは違って、それは「父の側に問題があるのではなく」、「問題があるとすれば能力の低い僕の方」というのが、大前提の認識だった。

それでも僕が前向きに「自分の信じる道を突き進めばいい」と思えたのは、弟であり、男児だったから。父からの肯定経験がほぼ一切なかった半面、僕にはその時代の男子らしい見えない優遇=母親からの「あなたには人にはない才能がある」という盲目的な肯定があったからだ。

それはいわば、女性にとってのガラスの天井(女性が女性であるだけで一定以上の活躍を阻まれる見えない障壁)と対極をなす、「ガラスのゆりかご」だろう。

僕にとって、父親不在の我が家は、母と子の家庭として完成し、しっかり機能していた。これが僕の我が家に対する評価だ。