人の人生はわかりやすいストーリーにあてはめられない


五十嵐:消費する側って、自分のこれまでの人生で、可哀そうとか、悲惨な人って見られることがない、または経験があっても疑問を持ったことがないのかなと感じます。僕は、ろう者の両親のもとに生まれて、周囲と違うことばかりで、だけど絶対に可哀そうだと思われたくないと思う瞬間がいっぱいあった。だから今、物を書くときも、取材対象者が可哀そうな人って思われたら嫌だと思うし、そこに意識が行くんです。

──可哀そうって感情自体がただちに悪だとは思わないんです。可哀そう=見下しているというわけでもない。一方で、同情や、下に見ているニュアンスがゼロかというとそうでもない気もして。
自分の人生を見たときに、確かに悲惨な部分もあるんです。私も親が”普通”と違ったので、何で普通と違うんだろうって思うことも死ぬほどありました。でも親への感情って簡単に表せるものではなくて、すっごく重層的で複雑。愛情もあるし、親がそうならざるを得ない社会に対して、問題意識もある。親と過ごした時間にはぬくもりもあるんです。第三者に簡単に「可哀そうな人生」といわれると、違和感もあるんです。

五十嵐:そもそも他人の人生を一言で形容できないですよ。人生はもっと複雑なんだけど、“複雑なまま理解しようとしない”人が多いと感じます。

 

──メディアって簡単なストーリーに持っていきたがりますよね。自分は悲惨なものだけでできているわけではないのに、と思うことがあります。

 

五十嵐:受け手からわかりやすさを求められているというのもあるんでしょうね。例えばヒオカさんを取材して、貧困で大変だった、でも父親との幸せな時間もあったと書いた時に、「え、結局はどっち?」となる可能性もある。だから極力わかりやすく書くんだと思います。