誰を正しく立派に見せるために、それは必要だったのか


現代を生きる私も、これには既視感があります。いつの時代も、正しく美しい日本には、「正しく女らしい女」が必要なようです。

淑やかで慎ましく、男を立ててお世話して、家事と育児を一手に担ういつもニコニコ優しいお母さん。職場では分をわきまえ、場を和ませる。結婚したら夫の苗字を名乗り、子どもを産んだらママ業を優先するべし。それが女らしい生き方。立派な式典には、若い美人がいないとね。偉いおじさんの横に立ってね。そう考える人は、2023年現在も社会の各所に存在します。

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そう言えば、社会学者の清水知子さんが書いた『ディズニーと動物』という本の中に興味深い指摘があります。ミッキーマウスのガールフレンド、ミニーマウスはなぜミニスカにフリルのパンチラ、ハイヒール、大きなリボンに長いまつ毛で小指を立ててくねくねしているのか。それはミニーの過剰な「女の子らしさ」との対比によって、ミッキーの「少年らしさ」が浮かび上がるからだと。ミニーの作画について当時のアニメーターは、ミニーは仕草も表情も徹底的に女性的でなければならないと述べています。確かに、ミッキーって別に「男の子らしい」ビジュアルではないですよね。小鼠だし。でも隣にいるミニーの装いや態度が女の子らしいと、人はミッキーを少年だと思うのです。

 

清水さんはこう述べています。
 


ミニーを「女の子」に「見せる」ことによって、ミッキーは「男の子」に「見える」ようになっている。ミッキーはミニーが身にまとった過剰なジェンダー性を回避することで「男の子」として成立しているのである。
 


これは極めて重要な指摘です。

ではなぜ、植民地で日本語の素晴らしさを示すために、そして敗戦後に日本の誇りを取り戻すために、「正当な起源を持つ淑やかな女ことば」が作られたのか。だわ・のよ、と話す女らしい女たちは、誰を正しく立派に見せるために必要だったのでしょうか。

あのな、自分の立派さやプライドは、自力で賄えよ。女に女らしさを押し付けて、対比で楽をしようとするなよな。あら、いま私、キーボードで「ざけんな、まじで!」と打ってからちょっと眺めて、消したのはなぜかしら。