実際のところは書いている内容の違いであって、序列の上下なんてありはしないのだけど、たとえば肝心の原稿料にしたって、肩書きがライターの人と、肩書きがコラムニストやエッセイストの人ではなんとなく違いが出そうな気もする。
僕も2年前にコラム本を出したし、現状の仕事量を見てもコラムが半数近くを占めているので、コラムニストと名乗っても差し障りはないのだけど、なんとなくおこがましい気がして、昔から使い続けているライターで貫き通してきた。
そんな中でのエッセイストである。もうね、肩書きの荷が重い。スーパーで6本入り2Lの水を買ったときの帰り道くらい重い。
肩書きについてモゾモゾしてしまう原因を辿っていくと、要は人からの見られ方を意識しまくっている自分というのが透けて見えるから嫌なのだろう。なんなら背伸びしてでも肩書きを盛っている人の方がまだ可愛い。
僕のなにがダメかと言うと、「肩書きにこだわるのってちょっと恥ずかしいですよね。そもそも肩書きなんてものは人が決めるもの。だから、読者のみなさんがエッセイストと呼んでくださるならエッセイストでもいいですし、ライターと呼んでくださるならライターでも構いません。どうぞお好きなようにしてください」という自然体を装った上でのライターである、ということだ。一見放任に見えて、自分がいちばんこだわっている。
そして、その自意識がダダ漏れになっていることが辛い。
こうした肩書きねじれ現象の結果、今の僕の名刺にはもう肩書きさえついていない。でもそれが「肩書きは自分」感を出していて、なおさら恥ずかしいことになっている。
大事なのは、他人にどう見られたいかではなく、自分がどうしたいか。そんなことは言われなくともわかっているけれど、いまだ他人からの視線に逃れないまま齢40を迎えてしまった。
はたして発売までに「エッセイストの横川です」と語尾に星をつけずに名乗れる日が来るのだろうか。不惑にして僕の自意識はますます惑い続けている。
構成/山崎 恵
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