「私たちよりも日本人」って褒め言葉?


今回の受賞者について大会委員長は、日本語や日本の習慣への理解が深く「私たちよりも日本人だと感じた」と述べたそうです。受賞者は「私たち」には入っていないのでしょうか? 発言に差別の意図はなく、むしろ褒め言葉だったのだと思います。それだけに、日本で暮らす「多数派の目から見て日本人に見えない人」が日々経験しているマイクロアグレッションの一端を見たように思います。たとえ日本で育ち日本語を使って暮らしていても、見た目や名前が多くの日本人と違うと「ガイジンなのに日本語うまいですね!」と言われ続ける。よそ者扱いされているように感じるでしょう。「私たち」には入っていないのです。

このミス日本のニュースはイギリスのBBCでも報じられています。その中で記者はグランプリに輝いた女性を「欧州生まれの初めての受賞者」であると伝え、祝福する声もある一方で「日本の伝統美とは違う」「十分に日本的ではない」と批判する声もあることを紹介しています。

 

ふむ。十分に日本的で伝統的な美しい容姿って、どんなものでしょう。仮に日本独自の美の基準の成立を平安時代の国風文化とするなら、今の日本で容姿端麗とされる俳優やモデルは、平安貴族から見てどう見えるのでしょうね。確か枕草子には「男の目が細いのは女性のようだし、金腕(かなまり:金属で作った丸いお椀)のように大きくてまんまるなのは恐ろしい」とか書いてありました。当時高校生だった私はこれを読んで、ほほう、今だと目が大きくてくっきりしている男性はかっこいいと言われるけど、清少納言はそれを恐ろしいと感じたのか。女性は目が細いのが良しとされたのだな。じゃあ今の人気アイドルを平安貴族が見たらなんと言うんだろう……もし清少納言が先輩だったら怖いなあ……などと授業そっちのけで空想していました。

写真:Shutterstock


そういえば幕末期の有名な花魁が、明治に入ってから西洋の写実的手法で描かれた自身の肖像画を見て激怒したという話を読んだことがあります。江戸時代までは、美しいとされる容姿の人をそのまま絵にするのではなく、おそらく画一的な「美人顔」で描いたのでしょう。この人は魅力的な容姿なのですよ、と示す記号のようなものでしょうか。だから浮世絵の役者絵や美人画も、さらに古い時代の絵巻物の貴族も無個性な顔で表されているんじゃないかと思います。それを写実的な絵や写真を見慣れた現代の目で眺めて「ほほう、これがこの時代の美男美女顔か」と考えるのは、伝統的な美なるものを誤解することになるのではないかと思います。


伝統的な日本美って、なんでしょう。美は感じるものですよね。その時その時で人の心に響くものが美しいとされ、その長い積み重ねが結果として伝統的な美と呼ばれるのだと思います。たとえば、現在は国宝になっている琳派の作品なども、当時はかなり斬新だったはずです。こんなものは伝統美から外れている、と批判する人もいたでしょうね。それが今や、昔からのあるべき日本美の代表のように言われています。


白人は伝統的な日本美を代表するのに相応しくないという批判は、伝統という言葉を用いることで差別感情を正当化しています。自分と似たような人しか仲間と認めない、偏狭で排他的な価値観を露呈しています。そのような発言をする人たちがいるということは、日本の恥にはなっても誇りにはならないでしょう。