@Cumeeさん
あの日は、幕張メッセの展示会に参加しており「そろそろ遅めのお昼かな」という頃地震が発生しました。今まで感じたことのないような揺れと、ミシミシという亀裂の入る音や悲鳴などが聞こえてきて、初めて死を意識するくらいの恐怖を感じました。大混乱の中なんとか外へ出ても、映画のような惨状に呆然としました。助け合いながら避難をしましたが、家族と連絡が取れたのは数時間後。命というものを意識させられた出来事でした。
 
@まさむーさん
3.11。次の打ち合わせまで春物を物色しようと銀座のデパートに入った途端、足下がぐらりと揺れ、町は悲鳴に包まれた。逆戻りした打ち合わせ場所で見た津波の映像。
ずっとニュースに釘付けになっていた時、ふと覗いた窓から見えたのは徒歩で帰宅する人々の姿だった。ざっざっざ。日常を飲み込む靴音の洪水。今も春になるとあの時の音の洪水を思い出す。それは忘れられないこと、そして決して忘れてはいけないこと。
@Ryokoさん
15:30に単身赴任中の夫と東京駅で待ち合わせをしていた。夫はテロップより早く公衆電話から事態を知ったという。夫が東京駅から徒歩で帰路についたのは真夜中すぎ、愛息の寝顔に安堵。帰宅できない私は、公衆電話から実家に懇願、車を出してもらう。保育園に着いたのは23時過ぎ、1歳の息子は夢の中。安堵、脱力。余震、停電、津波……未経験の恐怖の中、息子を守る思いで水とオムツの確保に奔走。水とオムツが届いた時は大粒の涙が頬を拭った。
@まっさん
2011年3月11日、私は数日前に次女を出産し、産院にいた。私の出産ポリシーとして、産後は母子同室であることをその時も守って、病室に子供と一緒にいた。あの揺れは、察知した瞬間にブワッ!っと鳥肌が立って、それこそ、まだ片手で抱えられる猫ほどの重さの命をさっと抱えて廊下に出た。授かった小さな命を必死に守ること。10年経ってもあの時を思い出すと、自分が親であることの意味を考えずにはいられない。
@犬山わんさん
大震災が来たのは、初期乳がん手術の直後だった。春には週5日放射線治療のため、地下鉄とゆりかもめを乗継いで病院に通っていた。計画運行は接続が悪く、帰宅に恐ろしく時間がかかる。昼でも薄暗い駅の椅子は、固くて冷たかった。
先週、術後10年の検査を受けた。結果次第で病院から「卒業」できる。同じ10年……震災と原発事故からの復興は、まだまだ遠い。被災地の現状に関心を持ち続けることも、応援のひとつだと思っている。