はかない命......“プティット・クルヴェット”

「もう、がんばれ、ない...」殺意を覚えるほどの陣痛。フランスでの出産後、母に起きた変化とは(最終回)_img0
 

生まれたーー

無我夢中でその一瞬がすぎ、少し遅れて「ふにぇぇえ」と情けない泣き声が耳に届いた。

「元気なかわいい男の子ですよ」

呆けている私の胸に、助産婦が頼りない小さな生き物を置いた。手袋をはめる余裕もなかったのか、血だらけの素手だった。

 

周囲ではまだドタバタ劇が続いているのに、私一人、急にしんと静けさのなかをたゆたっていた。いや、私だけではない。まだ目も開かないというのに、か細い手足をふるふる動かし、必死におっぱいを探している赤ん坊もだ。

私は一艘の船になり、んくんくと乳を飲む赤ん坊をのせて外界と切り離されて宙に浮かんでいた。

「よくがんばったね。蘭が誇らしいよ」

リュカがかがみ込み、幸福に潤んだまなざしで私を包んだ。そして最近になってようやく決まった名を、赤ん坊にささやいた。

「ようこそ、この世界へ」

臍の緒は怖くて切れないかも、と逃げ腰だったくせに、むしろ「やらせてください」とキリッと紅潮した顔でハサミを手にしている。父親としての最初の仕事、という使命感のようなものを漲らせていた。

赤ん坊が助産婦に引き取られ、分娩台の隣で検査が始まると、皆が口々に「プティット・クルヴェット!」と、とろけるような甘い声を出す。出産騒動の衝撃から徐々に覚めたらしいリュカも、いつもより多弁になって助産婦たちのおしゃべりに加わる。

2500g未満が低出生体重児とされるが、赤ん坊は2510gだった。健康で特別な治療も不要とわかり、天を仰ぐ。だがパジャマを着せられると小ささが際立った。人生初の服はどれにしよう、とリュカと吟味を重ねた末に選んだ、恐竜のアップリケがついた水色のパジャマにたぷたぷと埋もれるようだ。

それでも、確かに生きようという力に溢れている。
しかし、私たちが手を離せば死んでしまうだろう。
そのはかない命をぼんやり見つめていると、初めて涙が頬を伝った。

幸いにも希望通り個室に入ることができ、リュカは面会時間制限を大幅に無視して二十三時まで居座った。

「なんで皆、赤ちゃんを<プティット・クルヴェット(小海老ちゃん)>って呼ぶの」

「小さな赤ちゃんや子供の愛称なんだよ。日本には似たような愛称はないの?」

よく赤ん坊を「お猿さんみたい」とは言うが、面と向かって「小猿ちゃん!」などと呼んだら親が激怒するのではなかろうか。

「僕らの子供、僕らの最高の息子!」

新米パパは赤ん坊をもう一度ぎゅっと抱きしめ、そこかしこにキスを残すと名残惜しそうに帰って行った。

透明ケースのようなベッドに寝かされた赤ん坊と二人きりになる。疲れ切っているはずなのに神経が昂っていて、親と久実子に報告しようとスマホに手を伸ばしかけたが、結局は赤ん坊を抱きあげてみる。

くったりと温かい。手足をきゅっと縮めて丸くなった姿は、なるほど小さな海老みたいだなと、なんだかおかしい。

ーーことことじっくりミジョテして、できあがったのが、この<小海老ちゃん>なわけね。

夜中、三時間毎に起きておっぱいをあげていると、だんだんと力強くなることに目を見張った。産まれ落ちて数時間で既に育っている。

弱々しい赤ん坊に全身全霊で吸いあげられ、こくん、と一飲みされるたび、自我が消えて支配されていく……その感覚は少し恐ろしい一方、身体の底から震えが起きるような形容しがたい幸せでもあった。

ーーこれからこの子は、一生私についてまわるんだな。

腕のなかでぺたりと寝てしまった赤ん坊の柔らかさを味わい、熱い額に頬をよせてみる。

この状況でも、まだ自分が母親になった気がしない。だがこの子を守るという一点において、なにひとつ迷いはなかった。

すごく楽しいことになるかもしれないし、そうでもないかもしれない。とりあえず、わくわくしている。

「お互い、もう替えはきかないんだからね。よろしく頼むよ?」

遠くから、近くから、深夜の産院には赤ん坊の泣き声がこだましていた。時折助産師を呼ぶブザー音も重なり、廊下を行き来する乾いた足音が交わる。

その神聖で荘厳な音楽に身を浸し、私の小指すら掴めそうにない小さな小さな掌を握ると、小海老はむずがるように身をよじって泣き声の輪唱に加わった。

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<新刊紹介>
『燃える息』

パリュスあや子 ¥1705(税込)

彼は私を、彼女は僕を、止められないーー

傾き続ける世界で、必死に立っている。
なにかに依存するのは、生きている証だ。
――中江有里(女優・作家)

依存しているのか、依存させられているのか。
彼、彼女らは、明日の私たちかもしれない。
――三宅香帆(書評家)

現代人の約七割が、依存症!? 
盗り続けてしまう人、刺激臭が癖になる人、運動せずにはいられない人、鏡をよく見る人、緊張すると掻いてしまう人、スマホを手放せない人ーー抜けられない、やめられない。
人間の衝動を描いた新感覚の六篇。小説現代長編新人賞受賞後第一作!


撮影・文/パリュスあや子
構成/山本理沙

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