「蹴る回数は1人2回ずつ」? 暗黙のルールの弊害を考える

 

——社会全体の不寛容さは、どうすれば薄れていくと思いますか。

川良:前回の記事でも言いましたけど、日本ってやっぱり村社会なんです。例えば、「子育て村」に「ルール」を守らない人、まったく異なる価値観を持つ人が入ってきたとき、多少なりとも心がざわつくじゃないですか。快・不快でいうと、反射的に不快のセンサーが働くというか。でも、「いろいろなお母さんがいる」ことも認めていかないと、いつまで経っても村の同調圧力はなくならないし、結局“みんながつらい”状況は変わらないと思うんです。

羽生:今の話を聞いて、近所の公園の風景を思い出しました。そこにはサッカーゴールがあって練習している子も多いんですけど、「蹴る回数は1人2回ずつ」が暗黙の了解のようでした。ママたちが仕切っていて、シュートが失敗しても「また次ね」とルールを守らせて列の後ろに並ばせる。みんなが順番に蹴るためには必要なルールかもしれないけれど、子どもたちは上手くなりたくて練習しに来ているのに、本当にこれでいいのかなと思ったりしたんです。

川良:誰かが、「1人2回ずつとかいうルール、やめませんか?」とか、言えたらいいですよね。

羽生:そんな中に外国人の親子もいて。その子は、1人で20本ぐらいシュートを打っていたんです。ママもゴールが決まるまでずっとやらせているんですね。周りは明らかにザワついているんだけど、別に「1人2回まで」なんて明文化されたルールは公園にはないわけで。こういう親子が入っていかないと、同調圧力はほぐれないなと思ったんです。結局、その息子さんはサッカーが上達して、チームのスタメンになったという噂を聞きました(苦笑)。みんなが連続20回蹴り出したら、それも困るのは分かるんですけれどね。

 


「わかってるよね?」という空気に慣れ切った私たち

羽生:どうやって伝えて、話し合って決めていくのか。これには高度なネゴシエーションが要りますが、どこかで打開しないと結局、「誰もゴールが決められないチーム」になってしまうんじゃないかと。そんなことを感じたんです。

 

川良:公園一つでもいろいろありますよね。日本の文化はハイコンテクストと言われますし、空気・行間・文脈を読んだり、全てを言わなくても阿吽の呼吸でわかり合おうとします。でも、同じ文脈で生きていると思っていたけれど、「実は違う考えだった」ということだってある。20連続シュートを打っていた子を見て、「本当はうちの子もああいうふうに思い切ってやらせてあげたい」と思ったお母さんが、その場に3人ぐらいいたかもしれない。文脈を強要するじゃないけど、「わかってるよね?」という空気感に慣れすぎてしまって言いづらい、みたいなところはある気がしますよね。