急いで帰ると、23時に間に合った。ちょうど窓からエッフェル塔が点滅しているのが見えた。シャンパンフラッシュ。ライトアップされたエッフェル塔が、日没後の毎時ゼロ分から5分間だけキラキラ輝くのだ。

 

パリに引っ越してきたとき、頭の先っぽしか見えないエッフェル塔が、健気にキラキラしていることにどれだけ感動しただろう。

水漏れや電気・ネットの不調、お役所関係の煩雑な書類、郵便や荷物の紛失・破損……日々の問題は途切れることなく、決して謝らないフランス人相手に片言のフランス語で不満を述べ、解決策を求め、時に怒りをぶちまけ、悔し泣きした。

それでもこのキラキラを見ると励まされるようで、明日もがんばろうと思えた頃――

私は窓際に座り、シャンパンフラッシュが終わった後もまだエッフェル塔を眺めていた。

ゼロ時。またキラキラが始まった。でも啓介は帰って来ない。

きっと携帯には「もう一軒付き合うことになった」とか「先に寝てて」とかそんなメールが届いているだろう。

パリは週末、夜中の2時までメトロが動いているくらい夜更かしの街だ。今までもこんなことは何度もあった。私も何も疑うことなく、ベッドを一人で使えてラッキー、くらいに思っていた。今夜も今まで通り、シャワーを浴びてさっさと寝たほうがいい。

でも私は椅子から動けず、金縛りにあったように窓の外を眺めていた。

かちゃり、と鍵が開く音がした。

「葉子? 起きてたのか、メール見た?」

啓介の上ずって揺れる声は、酔っ払いのそれだった。

「おかえり」

啓介に背中を向けたまま返事をする。私の斜め後ろに、生温かい空気が近付いてきた。

「なにしてるの?」

怯えたような響き。

「別に。啓介はなにしてたの?」
「言ったろ、本社の人が来るって。まぁあれだよ、接待みたいなもんだ。付き合い」

私はようやく振り向いた。

啓介はかなり酔っていた。とろんとした目をこすると、床にしゃがみ込んでしまう。今にも眠り込んでしまいそうな啓介の瞳を覗きこんでも、膜がかかっているようでなにが映っているのかわからない。

その瞳の中に、私がいるのかいないのか。

私は「薬」の副作用をじわじわと感じていた。

「私、見たよ」

他人事のようにするりと発してしまった言葉に、自分でもハッとした。

啓介はむくりと頭を起こすと、まだ半分夢の中のような顔で私の膝に両手を置いた。

「……なに? ごめん、聞こえなかった」

 見たよ。啓介と、若い女性。
 見たよ。二人で仲良さそうにしていたところ。
 見たの? 私と武臣が抱きあっていたところ――

私は生温かい啓介の両手を見下ろした。結婚指輪が、太ってむくんだ指に食い込んでいる。

「葉子?」

鼻の奥がツンとする。奥歯を噛みしめ、泣きそうになるのを必死に堪えた。

ソフィなら、この場面でどうするだろう。自分のことは隠したまま、夫を責め立てるだろうか。それとも洗いざらいぶちまけて、罵り合うのか。

フランスだろうが日本だろうが、不倫されて、不倫して、傷つかない人なんているのか。

耐え切れず、目頭を押さえた。

啓介は一気に酔いが醒めたのか、顔から血の気が引き、ひどく強張った顔になった。よろめきながら立ち上がり、なにか言いかけて口を閉じた。

私は啓介の瞳の中に真意を探ろうとする。でもやっぱり何も見えない。こんなに真っすぐ真剣に向き合ったことなんて、もう長いことなかったと気付いた。

「あ」

視界の片隅がチカチカして、何気なく窓の外を見やって息を飲んだ。

初めて見た。深夜1時のシャンパンフラッシュ。いつものキラキラと、全く別物。エッフェル塔は、真っ白く強烈な光をギラギラと放っていた。

美しい。恐いほど……

光に引き寄せられるように私も立ち上がった。

――全て、現実のことなんだろうか。

 

啓介の腕が、壊れ物を扱うように恐々と私の肩を抱いた。

私たちは、これ以上なにも語らないだろう。帰国前には二人とも初体験のような素振りで、バトー・ムッシュに乗るだろう。そして、誓いのキスはしない。

唐突に、光がふっと消えた。消灯時間が来たのだ。後には暗い空ばかり。

――いい夢だったな。

全身から力が抜けていく。

迷いながらも私を支えてくれている腕の確かさを感じながら、私もまたぎこちなく啓介に上体を傾けた。

                                     終

 


パリの街角のリアル
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撮影・文/パリュスあや子


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