今なら


「ねえ、蓮人。私、もしかして妊娠したかも……」

28歳の冬の日。

10日ぶりのデートで、朝から楽しみにしていたのに、佐奈は元気がなかった。

映画を見た帰り、六本木ヒルズからぶらぶらと歩いて有栖川宮公園のほうに散歩をしていたとき、佐奈はこちらを見ずにつぶやいた。

「え!? え? そんな……そんなことある?」

僕は混乱し、素っ頓狂な声を上げて棒立ちになった。

「わかんないんだけど……市販の検査薬で陽性が出てるから、間違いないと思う」

当時二人とも27歳。二人の仕事のタイミングが合って、貯金が300万円になったら結婚しようと、僕は誰に見張られているわけでもないのに律儀に決めていた。

そういう意味で、妊娠は予定外だったし、気を付けていたつもりだった。でも絶対はないというし、心当たりがなくもない。

「え……でもさ、佐奈、どうするんだよ、せっかくの海外研修……」

僕は動揺し、佐奈の手を思わず取った。何もなければ順番が前後するのはかまわない。ただ、タイミングが問題だった。

2か月前、佐奈は念願の海外研修の辞令が出ていた。スリランカでインフラシステムを構築するプロジェクトがあり、佐奈は若手有望株として9カ月、参加できることになっていた。出発は3週間後に迫っていた。

「どうするんだよ、って……」

佐奈はそこで悲しそうに言葉を区切った。僕はハッとして、言葉選びに失敗したことに気が付いた。

「あなたと結婚しなかったことを後悔」一番好きだった人にそう言われたら...?アラフォーを揺さぶる禁断の再会_img0
 

「とにかく、病院に行ってみよう? 話はそれからだよ。一緒についていこうか?」

「……そうだよね。大丈夫、婦人科だし、一人で行けるよ」

佐奈の顔色は、心なしか白く、もしも妊娠しているとしてこの寒空で散歩するのは良くないと思えた。

「とにかくさ、家に帰ろう。そんな薄着でうろうろするのは良くないだろうし。タクシー拾うぞ」

いつの間にかローンテニスクラブの前まで来ていた。15時過ぎだというのに、木枯らしのせいか人通りはまばらだった。僕は通りかかったタクシーに向かって急いで手を挙げる。スカートの下のストッキングがいかにも寒そうだ。

「一人で大丈夫、タクシー乗っちゃえば祐天寺まですぐだもん。蓮人の言う通り、今日はもう寝て、明日午前休とって病院に行くよ。それから話そう」

「え、ああ、わかった」

滑りこんできたタクシーの後部座席の手前に座った佐奈は、奥に詰めずに小さく手を振った。

心配ではあったが、確かに佐奈の部屋に行っても、体を休める邪魔になるかもしれない。

そう思って、咄嗟に身をひいた。ドアはパタンと閉じ、車は滑らかに発進した。

翌日病院に行った佐奈。そこでも妊娠反応はあり、計算上は7週目に入ったあたりだが胎嚢といわれる赤ちゃんの袋がまだ確認できないということだった。

僕は不勉強でそのあたりのことが良くわからず、しかし翌週には心音が確認できることもあるから、という佐奈の言葉をきいて、とにかく待つしか術がなかった。

化学的流産、という言葉を知ったのはその1週間後のことだった。

「流産にもカウントされない、ごくごく初期のことなんですって。検査薬の精度が上がって、本来は認識されない、普通の生理と区別がつかないくらいの流産てことみたい」

佐奈は淡々とそう説明してくれたけれど、僕はそこでも「そうか……大変だったね」と言うしかない能無しぶりだった。

子ども。僕と佐奈の。

医学的には存在していなかったけれど、7日間、間違いなく僕の中に存在していた。

その存在は僕をおおいに揺さぶった。もちろん、嬉しかった。でもそれを上回る当惑があった。

佐奈が、どんなにこの海外プロジェクトに参加するのを楽しみにしていたか知っていたから。自分がそれを阻害したような気がして、申し訳ないとさえ感じた。

今思えば、僕はそこで致命的な失敗をした。

取返しのつかない、佐奈との決定的な亀裂は、この時に入ったのだと10年分歳を取った今ならわかる。

スリランカで佐奈が三橋氏に出会い、やがて惹かれていくのも、その時佐奈に芽生えた、僕への不信感が原因なのだと。

果たして再会してしまった今、僕はどんな言葉で過去の過ちを詫びるべきなのだろう?

タクシーを降りてからも、今度こそ間違えてはならないと、僕は必死に考え続けた。
 

次週予告:13話/蓮人の話【後編】
佐奈の出現に揺さぶられる蓮人。一方、不妊治療を望む妻の絵里子は……?
構成/山本理沙

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