私もそうなのですが、他者の表情の動きひとつ、声色の微細な変化ひとつから、さまざまなことを感じ取ってしまう。そんな子が多かったです。それは悪いことではなく、他者の痛みや感情にも敏感ということです。ただ、悪意だったり、容赦ない蔑みの視線にもとても敏感に反応してしまうため、学校という集団生活がしんどく感じてしまうのです。

 

敏感なことにとても悩む人生で、鈍感になりたい、と思ったこともあります。でも、鈍感ということは他者の感情にも疎いということ。敏感さは感受性の豊かさとも言い替えられ、あだにもなれば強みにもなります。

最近では芸能人でも、いじめられていた過去や不登校だったことを公表することも増え、「え、この人にもそんな過去が?」と驚くことがあります。不登校の子は圧倒的マイノリティだし、もしかすると特殊な存在と思われているかもしれませんが、みんなと変わらない普通の子たちなのです。

 


ひとつの「箱」が合わなかっただけ


二つめは、学校でうまくやれないなら、この先の人生ほかのところでもうまくいかないか? というと、そんなことはないということです。

ほとんどの子は普通に学校生活を送れるのに、それができない自分は社会不適合者なんじゃないか。これからも同じことの繰り返しなんじゃないか。そんなことを考え出すと沼にはまって、悲観的になって本当に苦しかったです。

私の場合はですが、高校と大学は普通に通えました。それは自分が変わったからではありません。単純にいじめがなくなったからです。進学校に行くと、勉強がめちゃくちゃ大変で、正直みんな自分のことに必死でした。いじめが存在する進学校だってもちろんあると思いますが、私の学校にはありませんでした。

たとえどんなに精神的に強くなっても、いじめられていれば耐えられなくなるのは当然。いじめに限らず、先生と合わなかったりいろいろなことがあると思います。学校は基本的には一度入るとなかなか変えられません。でも、合う、合わないがあるのは当然です。無数の箱がある中で、たまたまひとつ当たった箱が合わなかっただけだ、と今なら思うのです。

 

だって、世界は本当に広い。
いろーーーーーんなコミュニティ、環境があるわけです。

その中のひとつが合わなかったからって、自分に問題があるのでしょうか? ひとつダメでも、環境が変われば嘘のようにイキイキできることはあります。そして、いじめられた人より、いじめて誰かを不登校にまで追い込んでしまう人にこそ本来問題があるはず。不登校になった人の問題になるのは、おかしいなと思います。