人権=思いやりのイメージが生む危うさ

 

この本での重要な指摘は、日本では人権問題が「思いやり」という概念と結びついている、ということです。人権が守られるためには、思いやりや助け合いが大切、と教育されることがあると思います。「人権とは親切や思いやりによって実現する」と思われている、というのです。

思いやりと聞くと、ほとんどの方はいいイメージが浮かぶのではないでしょうか。一方で、思いやりという概念の危うさを、藤田さんは次のように指摘しています。

「思いやりは基本、強い立場から弱い立場へ一方的に与えられるものである。与える側が、気に入らない人や嫌な人に思いやりを与えないことも可能だ」(『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』P24〜25より)
 


人権が守られることに思いやりが絡むと、“仲間意識”や“哀れみ”が及ぶ範疇の外にある人権は蔑ろにされる可能性あり、一種の危うさを孕むのです。

人権とは本来、“無条件に”すべての人に“備わっている”ものです。しかし、日本では権利は条件付きに発生する、マジョリティの思いやりによってマイノリティの人権が守られるという考えが根強いように思います。

 

車いすユーザーへの批判に思うこと


象徴的なのが、車いすユーザーの移動問題です。先日、車いすユーザーの女性がエレベーターを待っていたところ、歩ける人たちが次々と乗り込み、何回も乗れないまま待たざるを得ない現状を、動画を撮ってSNSで訴えました。しかし、なぜかそこには非難が殺到。「急いでいるのは健常者も一緒」「車いすだから譲ってもらって当たり前というのはおかしい」という声もありました。

また、他の車いすユーザーが飲食店を利用しようとした際、「車いすのお客様の利用は経験がないため受け入れられないと断られたが、交渉して利用できた」という主旨の内容をツイートしたところ、やはり「配慮してもらって当たり前と思うのはおかしい」「図々しい」といった声が上がりました。