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そもそも非常事態での応急手当について資格は必要ありませんし、研修こそ受けていないものの、本人は医師ですから、そうした人物が行った応急手当に対して、一部とはいえ誹謗中傷が行われるというのは、まともな状況とはいえません。誹謗中傷とまではいかなくても、被害者がホストだったことから「助けようとしないことは良くないが、そうなる気持ちは分かる」などと、周囲の人が何もしないことを何とか正当化しようという差別的で歪んだコメントも見られました。

 

このケースに限らず、善意の第三者による行動への批判というのは、実は日本社会に根強く存在しており、こうした社会的慣習が市民による応急手当の普及を妨げているという指摘は以前から行われています。

多くの先進諸外国では、善意での行動については法的責任を問わないというルールが存在することが一般的です。

日本でも刑法や民法において、重過失や故意でない限り、応急手当の結果について責任は問わないという考え方がありますが、今回のケースからも分かるように、社会的にその合意が取れているとは到底、いえません。医師であったとしても研修を受けてないというだけの理由で、応急手当に対してこれだけの批判が巻き起こるわけですから、多くの一般人が躊躇するのは想像に難くないでしょう。

一部の人は、ケガ人やその家族が、手当てをした人に対して責任を追及する可能性がある以上、助けないのは当然だと主張していますが、筆者はそうは思いません。もし善意での行動について責任を問わないという社会的合意があれば、仮に手当てされた人が不当な訴えなどを起こしても、社会的に批判されるのは訴えを起こした側となります。そうした社会であるならば、一連のリスクは回避できるはずです。

善意による行為について責任を問わないというルールの根源には「善きサマリア人のたとえ(ルカによる福音書)」と呼ばれるキリスト教哲学があると言われています。

西洋と東洋は違うといった意見もあるようですが、善意による人助けを否定する考え方が、根源的に日本人の頭の中にあるとは思えません。宗教がどうであれ、善意による人助けを批判する風潮は、排除していく必要があるのではないでしょうか。
 

 

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