虫の知らせ

私は、少し早かったけれど、持ち場に歩いてやってきた。平和な平日の午後、春の気配が漂い、コンコースの右側一面、滑走路が見えるガラスの窓からさんさんと太陽光が射しこんでいる。

――もう準備、始めておくこう。そうすれば最後、不測の事態に対応する時間も生まれるし。

どうしてそんなことを思ったのかわからない。でも私はそんなことを考えながら搭乗便の準備を始めた。ゲートにあるPC端末でログインし、搭乗予定者を確認していく。

その時、誰かが、私の肩を2回、強く叩いた。

とんとん、と。

 

「!?」

私はびくっとなり、勢いよく振り返った。誰もいない。そりゃそうだ、私の背後は搭乗扉。まだ改札ゲートは閉じているので、お客様は柵の内側には入れない。

平日の午後は、のんびりしていて、私の不審な動きを見ていたひとはいないようだ。50メートルほど先の売店に、私は走って駆け込みたい衝動に駆られた。

――い、今の、何?

 

私は搭乗扉を凝視する。ここはボーディングブリッジに続いていて、その階段を上って、制限エリアから整備士やグランドハンドリングスタッフが入ってくることはある。しかし、この扉の重量からして、音を立てずに開けることは不可能だ。キー解除の電子音もしていない。

同じだ。あの時と。

私はとっさにそう思う。1カ月前、扉が閉まる音がしたときと、同じ。

誰かが、ここにいる……?

「恵梨香さん、準備させてしまってすみません! あれ、どうしたんですか、何かありました?」

このフライトを担当する後輩スタッフが、小走りで近寄ってきた。様子のおかしい私の表情を見て、心配してくれる。私は今起きたことを説明しようがなくて、ぎこちない笑顔でうなずいた。

「大丈夫、ごめんね」

言い訳をしようと口を開くよりもはやく、カウンター上の内線電話が鳴った。反射的に受話器を取ると、バックオフィスにいる責任者からだった。

「三谷ちゃん、忙しいとこごめん、緊急連絡。今、検査場Aで、制限危険品をお預かりする作業中に、もめて、その方が目を離した隙に消えてしまったらしいの。外に出たんならいいんだけど、万が一制限エリアにいたり、誰かに危険品を渡していたりしたら大変だから大捜索してる」

「ええ!? 防犯カメラは? 機内に持ち込めない危険物をもったまま行方不明ってことですか?」

「キャップで顔がわからないの。ちょうど機械の影で、制限エリアの中と外、どっちにいったかわからない。危険物はキーホルダーなんだけど、数センチとはいえナイフが収納されているみたいで、Xレイで検知されて。その人が検査場から引き返したのか、見ていたお客様もいなくて。しゃがんでいけばカメラの死角で移動できるし……。フライトを遅延させて、制限エリア内の全員を調べるっていう案もあるんだけど、いくら空いている時間帯でも1時間は遅延するし、そこまでするべきなのか、協議をしているわ」

「了解です。それじゃ一旦、機内にご案内する時間は未定とします」

私は頭を強引に切り替えて、電話を切った。航空会社は定時性をとても大切にしているので、遅延が確定すると否応なく緊張感が高まる。

しかも今回は、常識的に考えれば「思い出のキーホルダーを破棄することを迫られ、怒ったお客様がふらりとその場を離れてしまった」可能性が高い。ほかの検査場ならバレないかもなどと考えて、いったん戻ったのだろう、そういう方はこれまでいくらでもいた。

――正直、これだけでフライトを1時間も遅延させるのはなあ……。

とっさに、そう考えた。こんな理由を説明したら、ほかのお客様はきっと怒りだすだろう。これは微妙な判断だ。

その時だ。驚くべきことが起こった。