記憶と匂い
「わ~今年はとうもろこし! 新鮮で美味しそう」
仕事の帰り、マンションの宅配BOXから運んできた箱を開けて、弘美はひとりダイニングで歓声をあげた。
緑の皮に包まれたとうもろこしが、ぎっしりと詰まっている。
「哲也ったら、私が一人暮らしってこと忘れてない?」
弘美は産地直送の新鮮な匂いを吸い込んでから、丁寧にとうもろこしを2本取り出すと、軽く洗って蒸し器に並べた。
皮がついたまま蒸すと、冷蔵庫でしわしわにならずに保存できるから便利だと聞いて以来、弘美は数本まとめて蒸すようにしていた。
タイマーがピピッと鳴って、蒸しあがったとうもろこしをお皿に並べると、さっそく写真に撮る。
哲也とのLINEトークルームをさかのぼって探し、写真を送った。
『今年も北海道のおいしいもの定期便、ありがとう!』
宗田哲也は大学時代からの友達だ。北海道の、喜茂別という不思議な響きの町で農業を営んでいる哲也の実家に、サークルの仲間と遊びにいったのは22歳のとき。当時は大学4年生の夏休みと言えば、就職活動をうまく終わらせた学生の楽園タイムだった。
どうしてそのあと、今日にいたるまで哲也が毎年地元の農産物を弘美のところに送ってくれるようになったのか、記憶は定かではない。
とにかく、ちょっとお裾分け、といいながらあるときからずっと、年に1回くらいのペースで美味しい北の大地の恵みを送ってくれるのだ。
『おー、無事に届いたか。御礼はランチでいいぞ!』
すぐに返事がくる。ちゃっかりしてるわ、と弘美は一人でくすくす笑った。
『いつも美味しくて食べすぎちゃう……でもさ、とうもろこしだけでも何回いただいたことか。もう充分だからね、来年からは大丈夫だよ。御礼がてら久しぶりにごはんいこっか、焼き鳥なんてどう?』
『去年も焼き鳥だったぞ……。でも楽しみにしてる、今度の金曜夜は?』
OKのスタンプを押して、弘美はソファぽすんと腰かけた。
ちょうどいい温度になったとうもろこしに手を伸ばし、かぷっとかじりつく。じゅわっと甘い汁が広がった。その匂いと歯ざわりは、何よりも鮮明に、過去の記憶を呼び覚ました。
― とうもろこし1回目のときは、彬がいた。
咄嗟にとうもろこしを口から離し、お皿の上に戻す。不意にあふれ出した記憶の衝撃に、弘美は目を閉じて歯を食いしばり、じっと耐えた。
まるで地震が収まるのを、うずくまって待つように。
どのくらいそうしていただろうか。
『この焼き鳥の店、最高なんだ、19時から予約入れといた。仕事になっちゃったら遠慮なくリスケしてな。おやすみ!』
哲也のLINEが、弘美の平常心を呼び覚ました。
「……食べ物の匂いってすごい……不意打ち注意ね」
とうもろこしをかじる彬の笑顔の記憶の破壊力よ。弘美は無理矢理おどけて呟くと、残りのとうもろこしを何も考えないようにしてむしゃむしゃと食べた。
仕事人間の敏腕編集長。男っ気のない、姉御肌。
いつのまにかそんな風に評されることが多くなった。心から、望むところだ。
最愛の夫と、26歳で死別したことを知る人間は、弘美が日々を一緒に過ごすメンバーにはもう誰もいない。
そう、哲也以外は。
弘美は、次の金曜日が楽しみなような、そうでないような不思議な気持ちで、目を閉じた。
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