映画ととうもろこし
― この前はごめん。カチンときちゃって。大人げなかった。
弘美は帰り道に、一息にそうメッセージを打つと、送信した。家に帰ってあれこれ推敲するよりも、えいやで送ってしまいたかった。
清澄白河駅から地上に出て、大きな公園の横をゆっくりと歩く。吐息が暗闇にぽっかりと白く浮かび、冬の到来を告げていた。それにしても、と弘美は思う。
どうして哲也の言葉があれほど嫌だったのだろう。
彼氏をつくる気はないの、と書いてあった。長年男っ気がないことを揶揄されたようで頭にきたのだと思いたかったが、どうもそうではないような気がする。
― こちらこそごめん。いきなり不躾すぎた。
1分ほどですぐに哲也から返信が来た。この3日、彼は気にして待っていたに違いない。罪悪感が弘美の胸を締め付けた。
哲也は何か、もう少し弘美の言葉を待っているのかもしれない。でも、これ以上深いところに行くのが怖かった。
スマホをしまって、弘美は足早にマンションのエントランスに入り、自宅の玄関を閉めたところで息をついた。
こんな日はあったかいコーヒーを飲みながら、古い映画でも流して気分を落ち着かせてから眠ろう。弘美はシャワーを浴びると一息ついて、映画のサブスクチャンネルをつけた。
― わ、90年代の映画特集。何度も見たことあるからこれにしよう。途中で寝ちゃうかもしれないし。
弘美はそのメジャーなラインナップの中から「タイタニック」も「プリティウーマン」も飛ばして、「ショーシャンクの空に」を選んだ。
― 彬、これを刑務所脱獄モノっていうと、いつも怒ってたなあ。極上のヒューマンドラマなんだ! って。
弘美はそのことを思い出してくすくす笑いながらソファに座った。
いつのまにか、雨が降り出したようだった。その音を遠くに聞きながら少し部屋を暗くして映画を見ていると、弘美は二人で並んで映画を見ていたことを昨日のように思う。当時はまだDVDだった。
映画は流石の名作で、始まってしまうとすっかり引き込まれていく。
やがて主人公が、荒ぶる囚人を冷静かつ優しくなだめ、抱きしめるシーンにさしかかったとき、弘美ははっとした。
この映画を見たかったのは、彬と主人公の気配がほんの少し似ていたから。優しくて、穏やかでちょっと不器用な、もう二度と会えない夫に、ほんの少しだけ。
弘美はいつの間にかあふれてくる涙で、もう映画を見ることが叶わなくなる。
90年代の映画が見たいんじゃない、今夜、あの頃のように彬と並んで映画を見たかった。ときどきツッコミながら一緒に映画を見て、今日のもやもやを共有して、映画を最後まで見られなくてもまた明日があるからとそのまま眠ってしまえるこの部屋で。
もう全部、できない。だいたい、哲也のとうもろこしだってとてもじゃないけど一人じゃ食べきれない。
誰も悪くないのに、どうしてこんな悲しいことが起こるんだろう。
なぜ人は、それでも生きていかなくてはならないんだろう。
弘美は映画が終わったことにも気がつかず、たったひとりで子どものようにいつまでも泣きつづけた。
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