覚醒


――さ、3列目!? っていうか、このテープより前の2列って、マスコミ用のカメラマンが入る席じゃない!? もしかして……事実上の1列目ってこと?

映画公開初日、舞台挨拶の日。映画館で一番大きいIMAXシアターで指定の席に座って、智美は興奮のあまり首をぐるんぐるん回してあたりを観察した。

幸運過ぎて恐ろしい。秋野隼人を「再発見」してからたった3週間で、こんな近くで本物を見られるチャンスが来るなんて。何か大きな見えない力が働いているんじゃないかとすら思う。

昔、彼が人気絶頂のアイドルグループにいた頃は、ファンクラブ会員でもチケットは争奪戦だったはず。智美は女子校育ちだったから、卒業後もミーハーな友人がたくさんいて、いかにチケットを手に入れるのが大変かを見聞きしていた。

その情熱を現実の男に向けたらすぐ彼氏ができるんじゃ? などとからかいつつ、その熱心さに感心していたことを思い出す。

それなのに、こんな風にあっさりと最前列を手にするとは、なんという幸運。もはや運命なのかもしれない……。

そわそわしながら、手持無沙汰にスマホを触る。舞台挨拶の様子は撮影禁止だろうから、今のうちに装飾された舞台の様子だけでも、と思って撮影した。

ふと、好きなドラマに関するコメントを見るために作ったTwitterのアカウントのことを思い出し、試しに秋野隼人、と入れてみた。

するとどうだろう、今まさに目の前にある舞台セットの写真が並んでいる。これから舞台挨拶! などのコメントがあり、この数十分の投稿ばかりだ。

――この観客の中にいるファンが、リアタイで呟いてるんだ……!

智美は、スマホを伏せて、そうっと周囲の様子をうかがった。30~40代くらいの女性が、智美と同じように頬を紅潮させて座っている。よく見ると、お手製のうちわまで手にしていた。

――高校生じゃあるまいし、この歳で、しかも本人のコンサートでもない舞台挨拶で、そのうちわ……? 家で作ってたら家族に知られて恥ずかしくない……? ていうか持って帰って、どこに隠しておけばいいの……? 絶対無理!

赤くなったり青くなったり忙しい智美をよそに、会場の照明が暗くなる。司会の、どこかで見たことのあるフリーアナウンサーがスタートを告げた。

智美の視線が、スポットライトの先に釘付けになる。

ドラマで見る、数十倍のオーラをまとった秋野隼人が、ゆっくりと登壇した。

彼がちらりと、こちらを見た。息が止まるほど、胸が痛い。隣に座った同じくらいの女性が、彼の名前と映画のタイトルが書かれたうちわを急に振った。

秋野隼人は、それを見て、かすかに微笑んだ。

この上なく、蠱惑的に。

 

舞台挨拶の細かいことは、何も覚えていない。ただひたすら、隼人のことを見ていた。カッコいい。どうしようもなく、カッコイイ。降参だ。大変だ。凄い男の人を見てしまったと智美は思った。夫の昭一とは、性別しか共通点がないではないか。

映画が終わったあと、智美は熱気冷めやらぬまま、立ち上がった。ふらふらと歩きながら映画館のグッズ販売コーナーを見ると、秋野隼人のポスターが目に入る。

吸い寄せられるように近づいた。

映画の写真集が2冊。パンフレット、マグカップ、彼が写っているアイテムを片っ端からかごに入れていく。おまけになぜか、着るあてのまったくない映画のロゴ入りTシャツまで買ってしまった。

それだけで、2万円。

はっきり言って予定外の出費だ。もちろんパートでいくらか貯金はしていたから、そこから買えば昭一にはバレないという計算もあった。それでも、智美は内心、震えていた。

――こんなに楽しいこと、最近あった?

楽しい、楽しすぎる。この高揚感、このときめき。ドキドキと心臓が波打つ。

智美は、荷物の重さで手をプルプル震わせながら、初めてのデート帰りのような気持ちで六本木ヒルズを出た。

 
次週予告:
15話/推し活の第一歩を踏みだした智美。ドキドキしながら散財を告白した相手とは?
構成/山本理沙


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