秘密


「蓮人、お帰りなさい! 今日はお鍋だよ~、私も残業で時間がなかったからごめんね」

マンションの玄関を開けると、美味しそうな匂いが部屋に満ちていた。僕と妻の絵里子は同じ会社だったから、職場である大手町からアクセスのいい三田に去年、中古マンションを購入した。

「ただいま。お~旨そう、今日冷えるから嬉しい。風呂洗ってから行くよ」

「もうお湯沸いてるよ、先に入ってから来たら?」

共働きだから家事は基本的に半分ずつ、とは言え、やはり絵里子のほうが早く帰れる日が多い。食事は彼女が支度してくれるので、せめて洗濯や掃除を率先してやるようにしているが、おそらく実際は6対4で絵里子の負担が多いはずだ。

「いつもありがとな。じゃあありがたく入ってくる。急ぐから出たらビールで乾杯しよ」

ちょうど良い温度の一番湯に漬かりながら、白くツルリとした浴室の天井を眺め、息をついた。

結婚3年目。

子どもはまだいない。

この状況をまだ、と言うかは難しいところだ。絵里子は2歳年上で39歳。結婚した直後から子どもを授かったらいいなと思いながらここまで来たということは、自然な妊娠の望みは薄いのだろう。

僕は子どももいたら楽しそうだな、くらいの考えなので、そのこと自体はさほど気にしていなかった。

でも絵里子は、そうはいかないのだ。そうはいかない以上、僕は最大限彼女の望みをかなえてやりたい。

絵里子には多大な恩があるのだ。

 

「今日ね、蓮人の部署の後輩の……木下さん? が総務に来ててね、私が蓮人の奥さんだって知らなかったみたいで驚いてた。蓮人ったら、部署で結婚してること隠してるの……?」

 

お鍋を取り分けながら、絵里子が上目遣いにこちらを見てそんなことを言うから思わずむせてしまう。

「隠す!? そんなわけないじゃん、ていうか皆知ってるよ。結婚式に部長だって来ただろ? 木下は10月に異動してきたばっかりだから、そんな話したことなかっただけ」

「なーんだ、そっか。私てっきり隠し妻なのかな? って心配になっちゃった。うちの会社、ワルい男の人いっぱいいるから、つい心配になっちゃって」

へへへ、と決まり悪そうに笑う絵里子は、肌が白く小柄なので年齢より若く見える。おっとりしていて朗らかなので、総務でも人気があることはときどき聞こえてくる。

「まーな、商社マンなんて信用ならんから。娘が出来たら商社マンには嫁にやりたくないな」

言ってから、しまった、と思った。

日頃深く考えてないぶん、まだ用心深さが足りない。

「……そのことなんだけど。じつは少し前からいろいろ調べてて。

蓮人、一度一緒に病院に行ってみない? 年齢も年齢だし、もしどちらかに原因があるなら突き止めるとして、今が最後のチャンスかなって思うの」

「あー、まあ、そうだね。うん。確かにそうだ」

僕はとたんにお鍋の味がしなくなって、わざとらしくハフハフと牡蠣に集中するふりをした。

「不妊の原因で、女性にあると思われがちだけど、そうじゃないことも十分考えられるんですって。何でもないってわかれば安心だし、原因があるなら取り除けばいいわけだし。

なんだかこのままモヤモヤしたまま時間切れになっちゃうのがイヤだなって思うの。

ね、一度病院で調べてみない?」


僕が墓場まで持っていく秘密。

ひとつ目は、人生で2番目に好きだった人と結婚したということ。

ふたつ目は、会うことがかなわなかったけれど、ほんの一瞬だけ、この世に僕の子が存在していたということだ。

次週予告:11話/蓮人の話【中編】
できるだけ絵里子の気持ちを尊重したいと考えている蓮人。そんなある日、まさかの「彼女」と再会して……!?
構成/山本理沙

第1回「美しき大黒柱の43歳に突然届いた、非情ながん検診結果。その時彼女がとるべき行動とは?」>>

第2回「​「がんになった」と誰にも言えない。43歳で突然の「乳がん宣告」を受けた女性の迷い」>>

第3回「​​8歳年下と「結婚を考えない真面目な交際中」に乳がん発覚。43歳の彼女が一番に調べたこととは?」>>

第4回「周囲に離婚を言えない「シングルマザー」。8年越しの大恋愛から一転、子連れ離婚した女性の葛藤」>>

第5回「「好きな人ができた」出会って18年目の離婚。38歳妻の身動きを封じた夫の告白」>>

第6回「離婚後、誰にも頼れない...。38歳シングルマザーの窮地を救う「思いがけない発想の転換」とは?」>>

第7回「​26歳で大好きな夫との死別。17年かけて平穏を取り戻した妻の心を波立たせる「意外すぎるモノ」とは?」>>

第8回「​​「最愛の夫が、交通事故に...」妻を襲った悲劇。死別を受け入れられない妻の苦悩と決断」>>

第9回「​​​彼は亡き夫の親友。でも今は...?夫を忘れられない妻が17年間断ち切れない記憶」>>

第10回「アラフォーに告白は必要?セカンドバージン43歳没イチ女子「今さら恋」の結末」>>