夫の意外な「推し」の対象


「国内線の飛行機予約なんて久しぶりだなあ……LCCの平日ならば往復3万円くらいか。問題は、ライブが終わってからじゃ最終便に間に合わないから……宿泊になっちゃうんだよねえ」

智美は、小一時間ほども、「ぼっち参戦シミュレーション」を繰り返していた。

会場の近くにはビジネスホテルがいくつもあり、1万円ほどで部屋を確保できそうだった。

ライブのチケットは、まだ発売中になっている。人気俳優とはいえ、アイドル歌手としての全盛期は過ぎていたから、大きな会場なこともあり抽選にはなっていないようだ。

つまり、あとは決心してクリックするだけで、札幌行きが決定するというわけだ。

――ど、どうしよ、冴子と藍里には宣言しちゃったけど……。まず昭ちゃんと斗真に何ていうかよね。一人旅なんてしたことないから変に思われるに決まってるし。秋野隼人のライブに行くなんて言ったらひっくり返るに決まってるし。いい年して何してんだって反対されるだろうし……何より恥ずかしい!

 

「ただいま智美~! 寒かったぞう」

マンションの玄関を開ける音に続いて昭一の声がする。いつもは鍵を出すのを面倒くさがってインターホンを押すのに珍しい。急いで迎えに出ると、学校帰りの斗真と一緒になったようで二人、玄関で我先にとばかりに靴を脱いでいる。家が一気ににぎやかになった。

「二人ともお帰り! 一緒に帰ってきてくれてありがたいけど、お米あと30分しないと炊けないの、ちょっと……調べものしてて遅れちゃってごめん」

「いいよいいよ、風呂はいっちゃう! パパ、先にはいる?」

「斗真はいっちゃえよ、部活で汗かいただろ」

「サンキュー! すぐ出るよ!」

智美はさっきまで浸っていた妄想の世界から一転、あわただしく中断していた夕食の支度づくりに取り掛かる。

こういうのだって、もちろんキライじゃない。でも、一人でうっとりと隼人のことを考える濃密な時間とのギャップがおかしかった。

人生、そういうご褒美時間があってもいい。絶対にいい。妻も、お母さんも。

自分が心から楽しいことを認めて、ちょっと自分の機嫌を取る時間。

「なあ、札幌ってなんだ?」

ハッとしてシチューをかき回す手を留め、リビングを見ると、昭一がiPadを片付けながら検索画面を見たらしく、尋ねてきた。

「札幌! 札幌、そうなのよ……実は、ちょっと行きたいなあって」

動揺しまくる智美の言葉に、昭一は驚いてこちらを見た。

「なに、冴子さんたちと? ああ、去年の温泉、行けなくなっちゃった代わり?」

「そ、そうなの! じつは冴子の好きなアーティストのライブがあって、一緒に行けたらいいねって、うん、その、ついでにね」

冷や汗がじんわりと浮かぶ。親友の名誉も毀損しているような気がするが、口から出た言葉は取り消せない。

「へえ~、相変わらず冴子さんはパワフルだなあ。ま、時期を選べば札幌ツアーって3万円台になってたりするよね。たまには楽しんできたら」

「いいの? え、札幌? だって昭ちゃん、ボーナスカットされたからランチも500円にしたって言ってるのに」

「うわっ、それ忘れてたのに言うなよ~。ま、いいさ、智美がそんなこと言い出したの、結婚してから初めてだしさ。なんかにドキドキできるって幸せだよな。俺、そういうの、推し活っていうの? 無縁だったから、冴子さんの話とかきくとちょっと羨ましいよ」

智美は、熱々のシチューを皿によそいながら、言葉を探した。

――そうだよね、私がそうだったように、昭ちゃんも自分の楽しみよりも「夫&お父さん業」を優先してたもんね。生真面目で、芸能人にも疎いし。もう長いこと私たちの推し活対象は「斗真と家庭」だったんだよね。

「……ありがと、昭ちゃん。私さ、行ってみたいんだよね、札幌。昭ちゃんももし挑戦してみたいこととかできたら一番に教えてよね。私、できる限り応援するからさ」

「挑戦!? 挑戦かあ、そりゃまた大袈裟な話だけど、そうだなあ、ま、考えてみるか」

智美はにっこり笑うと、また夕飯の支度にとりかかった。

くすぶっていた罪悪感を、今、蹴散らそう。楽しむことに漠然とした罪悪感を持つよりも、心から楽しんで、その幸せを家族に、周囲に還元する。

体の隅々にポジティブな「推しの力」がみなぎるのを感じながら、智美は料理の仕上げに精を出した。
 

 
次週予告:
【智美編最終話】札幌に遠征した智美。振り切った智美が見た景色とは?
構成/山本理沙


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